小克鼎(伝陝西省扶風県出土)
通高45.7㎝、口径41.5㎝
西周後期
鍋形の器体に二つの持ち手(耳)と三本足がついた鼎(テイ/かなえ)は、豚や羊などの犠牲の肉を調理し、運搬するためにつかわれました。
西周時代後半の鼎は長い銘文をもつものが多く、この鼎にも内壁に計70字が施され、宮廷料理番の「克」という人物が成周(洛陽)の駐屯軍の監督に任ぜられ、無事に役目を果たしたことを記念し、この鼎を製作したと説明されます。
文字の周りには凸の罫線があり、一見整然としているようですが、罫線を跨ぐ字があったり、右から3行目最下段と7行目の「令」字を書き落としたりしています。
胴部上段の「窃曲(せっきょく)紋」、下段の「環帯(かんたい)紋」は、どちらも横向きの龍の目・角・あご・羽根などを分解し、抽象的にあらわした紋様で、三足も龍の頭部に象っています。
小克鼎は清・光緒十六年(1890)に陝西省扶風県の法門寺近くで出土したと伝わり、現在7器の存在が知られています。そのなかでも、当研究所の小克鼎は、宣統元年(1909)に編纂された『陶斎吉金続録』掲載の「克鼎」と器形や銘文の特徴が一致し、陶斎(端方)の旧蔵品であると特定できます。
清の乾隆帝の時代には、皇帝主導の「彝器之学」の復興によって古銅器の蒐集が盛んとなり、多くの収蔵家が生まれました。端方もその流れを汲む一人で、陝西方面の義和団の活動を鎮圧するかたわら、金石学の興味から多くの青銅器を蒐集しました。
西周後期の歴史資料としてだけでなく、清朝金石学を伝える資料としても重要な鼎です。
(石谷)