各4.9×15.4×5.4㎝
江戸時代・嘉永6年(1853)
江戸時代、紙幣の印刷には黄楊(つげ)や桜に彫った「版木(判木)」を用いました。
これらは偽造を防ぐため印刷が終わると処分されることが多く、発行された紙幣の種類に比べ、現存数はきわめて少ないものです。
本品は表と裏の2つがセットになっており、それぞれ上・中・下の3つの小版木が側面に差し込まれた貫木によって連結されています。
分解してそれぞれ別に保管することで自由に製造できないようにし、また一部を差し替えて額面の異なる紙幣を刷る場合もあったようです。
木箱の蓋に「嘉永癸丑六月/銀(ママ)五匁御札御判両面/大阪淀屋橋南詰/藤村弥兵衛刻」とあることから、嘉永6年(1853)6月に大阪の版木師・藤村弥兵衛が彫刻したとわかります。
この藤村弥兵衛は安永6年(1777)銘の尼崎藩銀拾匁札版木(尼崎市蔵)も彫刻しており、数代にわたり藩御用達の版木師をつとめたとみられます。
おもて面に「銭五匁」の額面を入れ、うら面には「摂州尼ヶ崎札」の名称とともに正貨との交換をおこなう役を担う「播州中安田/引替会所/津田喜兵衛」の名を刻みます。
さらに大黒天や歳寒三友図(松竹梅)のほか、双龍、雲気、青海波などの文様で余白を埋めます。
2.5mmほどの深さでほぼ直角に、狭い部分では0.1mmに満たない幅で線を残すおどろくほど精緻な技術によって彫っており、細かな図柄自体が偽造対策であったことが窺えます。
なお、播州中安田(兵庫県多可郡多可町中区)は尼崎藩が明和6年(1769)の上知(あげち)により、酒造で潤う西宮や兵庫津などの灘地域にかわって、播磨の宍粟・赤穂・多可の3郡内に与えられた飛び地のひとつです。
嘉永になって銭五匁札を作ろうとした理由はわかりませんが、版木は摺りをおこなった摩滅が少なく、発行を裏付ける史料や流通札も発見されていないため、未発行に終わったと考えられます。
(川見/監修:兵庫埋蔵銭調査会 永井久美男)