天正大判(菱大判)
14.3×8.5×0.1㎝ 166.0g
桃山時代(16世紀)
天正16年(1588)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、彫金師として仕える後藤家に大判の製作を命じます。
なかでも菱形の桐紋極印を打つ「菱大判」は、現存数が世界で6点のみともいわれる希少品です。
金の品位は六十一匁(72.1%)といわれますが、本品の蛍光エックス線分析では金と銀の割合がおおよそ8:2となり、18金(75%)、もしくはそれより高い純度という結果が出ました。
隙間なく横方向の鎚目を入れたおもて面には、製作年を示す「天正十六年」とともに、品位を保証するため「拾両 後藤(花押)」の墨書を入れます。
墨書は菱後藤家の祖で、本家(四郎兵衛家)4代当主・光乗の末弟にあたる祐徳によるものです。
なお、ここでいう「拾両」は四十四匁(165.0g)をあらわす量目の単位であり、小判の一両が価額であるのとは異なるので注意が必要です。
中央やや下の切り込みに金片を差し込み、表裏に折り曲げて圧着しているのは量目調整のためでしょう(「埋金」)。
うら面にも実は墨書があり、「三好□(山?)」「(花押)」のほか、消えかかっていますが「寺澤越中(花押)」と読めます。
これは天正14年に越中守に任じられた寺沢広政(1525~96)をさすとみられます。
広政は材木奉行などとして豊臣政権を支えた人物で、天正16年4月14日、後陽成天皇の聚楽第行幸に際しては秀吉の前駈衆の一人として名を列ねます(小瀬甫庵『太閤記』)。
贈答や献上にあたって記された裏書とみられます。
のちの「長大判」や「大仏大判」よりも小ぶりで、波打つように変形していますが、そのぶんやや厚みがあり、手にとると伝わるずっしりとした重みに400年の歴史を感じます。
(川見/監修:兵庫埋蔵銭調査会 永井久美男)