刀 銘 慶長九年十一月吉日信濃守國廣作 依賀茂祝重邦所望打之
刃長65.3㎝ 重656g
安土桃山時代(1604年) 重要文化財
反りをやや浅く、身幅をやや広く作り、延びた中鋒とした刀です。
やや肌立った板目の鉄地には地沸がついています。
“小のたれ”に“互の目”が交じる刃文には、ところどころに“喰違い刃”が入り、沸(にえ)がよくついて、砂をほうきで掃いたような“砂流(すながし)”や直線的な“金筋(きんすじ)”がかかっています。
深い栗尻とした茎(なかご)には右下がり(筋違 すじかい)の鑢目(やすりめ)を入れます。
目釘孔は一つですが、重なり合うように埋めた痕跡が残ることから、ある時期にあけなおしたとみられます。
本刀は慶長九年十一月に上賀茂神社の神職・賀茂祝重邦(1564~1628)の依頼により、信濃守国広が製作したと銘にあり、製作年と注文主がわかる点で貴重です。
賀茂祝重邦は重能の子で、もと重国、重郷と称し、天正二年(1574)、十一歳で正祝職を継承しました。
元和二年(1616)に職を解かれ、入道して化安、長鶴と号したようです(『賀茂祢宜神主系図』)。
信濃守国広(?~1614)はもと日向飫肥の城主伊東家の臣で姓を田中といい、主家の没落後は諸国を流浪して作刀したと伝えられます。
天正十八年(1590)頃に信濃守を受領し、慶長四年(1599)頃には京都の一条堀川に定住したようで、堀川国広とも称されます。
門下からは出羽大掾国路、国安、大隅掾正弘、越後守国儔らのほか、のちに大坂新刀の先駆けとなる初代和泉守国貞(1589~1652)と初代河内守国助(?~1647)が出るなど、多くの弟子が活躍しました。
(川見)