太刀 無銘 菊御作
刃長72.7㎝ 重627g
鎌倉時代(12~13世紀) 重要文化財
先になるほど身幅が狭くなり、鋒(きっさき)を小さく作る端正な姿の太刀です。
手もとに近いところで深く反っていることからも、平安末から鎌倉初期の製作と考えられます。
よくつんだ小板目の鉄地にはこまかな地沸(ぢにえ)がつき、ぼんやりと白く“乱映り”が立っています。
“丁子”に小乱れ交じりの刃には、垂直方向に“足”や“葉”とよばれる模様が入り、こまかな沸がよくついています。
持ち手にあたる茎(なかご)には目釘孔が二つあり、鎺(はばき)が装着される区(まち)下には十六葉の菊紋を毛彫りします。
源平争乱のさなか、神器を欠いたまま即位した後鳥羽天皇(1180~1239)は、山城・備前・備中の刀工12人を選抜し、月ごとに呼び寄せて作刀させたといいます(いわゆる御番鍛冶)。
また『承久記』前田家本に「御所焼、菊銘の太刀」がみえ、古活字本には「御所焼とは、次家・次延に作らせて、君手づから焼せ給けり。公卿・殿上人・北面・西面の輩、御気色好程の者は、皆給て帯けり」とあるように、自らも鍛造して臣下に賜ったと伝えられ、菊紋を刻んだものを「菊御作」や「御所焼」、「御所作」と称して御作の太刀とみなしてきました。
御番鍛冶は『正和銘尽(観智院本銘尽)』などの刀剣書に記される伝承で、信頼度の高い歴史書にはみえず、真偽は不明と言わざるをえません。
ただ、南北朝時代に成立したとされる『増鏡』第二「新島守」には、後鳥羽院に刀剣を鑑定するスキルがあったとする記述がみられるのも興味深いところです。
相槌をつとめた刀工により作風が異なるともいわれ、山城粟田口派の作風を示すものと備前一文字派の作風を示すものとがあり、本刀には後者の特徴があらわれています。
(川見)